
ゴブリンシャークが獲物に噛みつく瞬間、普段は頭部の下に収まっている顎が、まるで顔から外れたように前方へ飛び出します。2016年に実際の捕食行動を映像解析した研究では、下顎先端の最大速度は3.14m/s。顎を開き始めてから獲物を挟むまで約0.32秒で、最大突出時には上顎が体長の8.6%、下顎が9.4%に相当する距離まで移動していました。研究チームが比較した他のサメに対し、上顎の突出量は体長比で2.1〜9.5倍に達します。ゴブリンシャークの顎が「異常に遠く、速く動く」こと自体は、映像から定量的に確認されています。
では、これほど極端な顎は、獲物を強く噛むという点でも優れているのでしょうか。そこで別の角度から顎を調べたのが、2023年に発表された肉食性ネズミザメ目13種の比較研究です。研究者らは顎を三次元的な「てこ」として解析し、筋肉から入力された力が各歯でどれだけ咬合力へ変換されるかを比較しました。その結果、ゴブリンシャークは13種の中で全体として最も低い力学効率を示しました。前後に長い顎は関節から歯までの距離を伸ばし、さらに顎を閉じる筋肉も比較的後方に位置するため、筋力を歯へ伝えるという尺度では不利になります。ただし、これは実際の咬合力を測定した結果ではなく、「同じ筋入力ならどれだけ効率よく歯へ力を伝えられるか」を比べたものです。
さらにロザニカでは、2023年研究に掲載されたゴブリンシャークの歯ごとの相対咬合力を使い、同じ顎の前後で効率がどれほど変わるのかを計算しました。上顎では最前方のA1が0.25、後方のL8が0.59で、単純比では約2.36倍。下顎でも前方のa1が0.22、後方のl7が0.48で約2.18倍になります。つまり「ゴブリンシャークの顎は低効率」という一言だけでも不十分で、同じ顎の中でも、獲物へ最初に届く前方の細長い歯ほど力学効率が低く、後方へ進むほど高くなる構造になっています。
ここまでを2016年の捕食映像と重ねると、この奇妙な顎の特徴がよりはっきりします。ゴブリンシャークは、典型的な高速遊泳型のサメのように体全体で獲物との距離を一気に詰めるのではなく、前後に長い顎そのものを高速で送り出します。その「長さ」は、てこの効率を下げる要因である一方、獲物へ届く距離を大きくする特徴にもなっています。2016年研究では高速突出が低い遊泳能力を補う可能性が、2023年研究ではスリングショット機構が低い顎効率を部分的に補う可能性がそれぞれ論じられています。ロザニカでは、最大3.14m/sの突出運動、13種の顎比較、そして歯列内で約2倍以上変わる力学効率をつなぎ、ゴブリンシャークの顎が単純な「強い顎」ではなく、遠くの獲物へ届くことに極端な特徴を持つ捕食装置としてどう成立しているのかを追います。
わずか0.3秒で「引く→撃つ→閉じる」
ゴブリンシャークの顎がどのように飛び出すのかを初めて詳細に記録したのが、Nakayaらが2016年に発表した研究です。
研究チームは2008年と2011年に、全長約1.3mのゴブリンシャーク2個体から計5回の攻撃・捕食行動を撮影しました。詳細な運動解析には、動作全体が記録されていた2008年個体の映像が使われています [1]。
動きをミリ秒単位で追うと、「口を開いてそのまま前へ出す」という単純なものではありませんでした。
まず0〜146ミリ秒で口を大きく開きます。このとき下顎は下へ開くだけではなく、後ろ斜め下へ大きく引かれます。
そして146ミリ秒に下顎が最も後退した直後、動きが反転します。
146〜239ミリ秒の「shooting stage」と呼ばれる区間で、上下の顎が一気に前方へ突出しました。上顎の最大速度は1.60m/s、下顎は3.14m/s。最大開口角は約116度に達しています [1]。
239ミリ秒からは突出した顎を閉じ始め、279ミリ秒で最大突出、319ミリ秒には口がほぼ閉じました。
つまり、動作開始から約0.32秒で「大きく開く→後方へ引く→射出→獲物を挟む」までが進むことになります。
さらに突出量も異常です。
静止位置から最大突出までの移動距離は、上顎先端が111mm、下顎先端が121mmでした。体長との比率では上顎が8.6%、下顎が9.4%です [1]。
2016年研究が比較した他のサメでは、上顎の突出量は体長比でおよそ0.9〜4.0%。ゴブリンシャークはそれらの2.1〜9.5倍に達すると計算されています [1]。
図解1:ゴブリンシャークの「スリングショット捕食」を0.3秒で追う

「スリングショット」は動きの呼び名——バネ機構まで実証されたわけではない
この捕食法は論文で「slingshot feeding(スリングショット・フィーディング)」と名付けられました [1]。
名前だけを見ると、ゴムやバネにエネルギーを蓄えて顎を発射しているようにも聞こえます。しかし、今回の研究で直接観察されたのは顎の運動です。弾性組織にエネルギーを蓄積し、それを解放していることまで直接測定した研究ではありません。
したがって「体内のバネで顎を撃ち出す」と説明するのは踏み込みすぎです。
映像から確認できるのは、下顎をまず後下方へ大きく回転させ、その直後に前上方へ振り戻しながら突出させる動きです。下顎はこの回転運動を伴うため、最大速度が上顎の1.6〜2倍になったと研究者らは説明しています [1]。
もう一つ特徴的なのが、顎の進む「方向」です。
ホホジロザメなど他の突進型のサメでは、顎は下方または前下方へ突出する例が知られています。一方、ゴブリンシャークの顎は前方、やや上向きへ突出しました。結果として、泳いでいる方向そのものへ口を送り出す形になります [1]。
研究者らはゴブリンシャークを、吸い込みで獲物を取り込む「吸引型」ではなく、獲物との距離を詰めて噛みつく「ram feeder」に分類しています。ただし典型的なネズミザメ目のように、強力な尾で高速追跡して距離を詰めるわけではありません。
そこで奇妙な発想が生まれます。
体全体で最後の十数cmを詰める代わりに、顎そのものを獲物へ送り込めばいい。
これがゴブリンシャークの顎を理解する重要な視点です。
しかも、一連の動作にはまだ説明のついていない部分があります。
獲物を挟み、顎を戻し始めた後の785〜1,077ミリ秒で、ゴブリンシャークは口を46〜48度までもう一度開きます。その後1,397ミリ秒までに再び閉じて通常状態へ戻りました。
この「再開口→再閉口」は2011年個体でも確認され、研究者らは他のサメでは知られていない新しい捕食動作である可能性を指摘しています。ただし、何のために行っているのかは分かっていません [1]。
13種の顎を比べると、ゴブリンシャークは「力を伝えにくい」
これほど極端な捕食装置なら、噛む能力もさぞ優秀だと思うかもしれません。
ところが2023年、TanoueとShimadaが肉食性ネズミザメ目13種の顎を三次元的に比較すると、別の姿が浮かび上がりました。
対象になったのは、ゴブリンシャークのほか、シロワニ、オオワニザメ類、ミズワニ、3種のオナガザメ、ホホジロザメ、2種のアオザメ属、2種のネズミザメ属です。各種について保存標本のCTやX線画像などから顎の形を測定し、「てこ」としての性能を解析しました [2]。
ここで重要なのが、研究者らが測ったものは実際の噛む力そのものではないという点です。
筋肉が生み出す力を最大1としたとき、その力のうちどれだけを各歯での咬合力へ変換できるかを計算しています。
ドアを想像すると分かりやすいでしょう。
蝶番から遠い場所を押せば、小さな力でもドアを動かせます。逆に、蝶番のすぐそばを押すと大きな力が必要です。顎でも、関節・筋肉・歯の位置関係によって「てこ」の効率が変わります。
13種を比べた結果、ゴブリンシャークは全体として最も効率の低い顎を持っていました [2]。
理由は大きく2つあります。
一つは、顎を閉じる「顎内転筋」が比較的後方に位置していることです。筋肉が作用する位置が後ろにあるほど、入力側のてこが短くなり、歯へ力を伝える効率が下がります。
もう一つは、顎が横幅に対して前後に長いことです。
長い顎では関節から前方の歯までの距離、つまり出力側のてこが長くなります。これも同じ筋力から得られる相対咬合力を小さくします。
反対に、ゴブリンシャーク以外の12種では顎内転筋がより前方まで伸びており、入力側のてこが長くなるため、全体として高い効率を示しました [2]。
ただし、「ゴブリンシャークは噛む力が最弱」と言い換えることはできません。
2023年研究は筋肉の断面積や実際の筋力を用いて絶対的な咬合力を求めていません。研究者自身も、今回分かるのは顎の効率であり、実際の咬合力の大きさはこのモデルからは求められないと明記しています [2]。
この違いは重要です。
「100の筋力からどれだけ噛む力へ変換できるか」が低いのであって、「実際に何ニュートンで噛むか」を13種でランキングした研究ではありません。
前歯は0.25、後方では0.59――同じ顎でも効率は2倍以上違う
さらに2023年研究のデータを歯ごとに見ると、もう一つ面白い特徴があります。
ゴブリンシャークの上顎で最も前方にあるA1という歯の相対咬合力は0.25でした。
そこから後方へ進むにつれ、
A2:0.26
I1:0.28
L1:0.31
L2:0.34
L3:0.38
L4:0.42
L5:0.46
L6:0.51
L7:0.54
L8:0.59
と基本的に大きくなっていきます [2]。
つまり、論文の数値をもとにロザニカ編集部が単純比を計算すると、
0.59 ÷ 0.25 = 2.36
となり、後方のL8では前方のA1の約2.36倍の相対咬合力になります。
下顎でも、前方のa1は0.22、確認された後方のl7は0.48でした。
こちらも、
0.48 ÷ 0.22 ≒ 2.18
で、約2.18倍です。
これは「奥の歯なら実際の噛む力が2倍」という意味ではありません。同じ最大筋入力を仮定したモデル上で、力を歯へ変換する効率がそれだけ異なるという意味です。
図解2:ゴブリンシャークの顎を「力の地図」にする

この配置は、歯の形とも無関係ではありません。
13種を横断した研究では、前方にある細く尖った「刺す」タイプの歯では相対咬合力が低く、後方の幅広い切断・破砕型の歯では高くなる傾向が示されました [2]。
細い歯は獲物と接する面積が小さいため、比較的小さな力でも先端へ圧力を集中させやすくなります。研究者らは、前方の細長い歯と低い相対咬合力、後方の幅広い歯と高い相対咬合力という組み合わせによって、歯列全体で捕食時の圧力をある程度保つ可能性を論じています [2]。
ただし、歯の形だけで生態や機能を完全に予測できるわけではありません。ゴブリンシャークの上顎についても、すべての歯を含めた歯の形と相対咬合力の相関は統計的に有意ではなく、単純な「歯の形=用途」という対応には注意が必要です [2]。
「速いのに低効率」は、むしろ同じ戦略の表裏なのか
ここからは、2つの研究をもとにしたロザニカ編集部の整理・考察です。
2016年研究が測ったのは顎をどれだけ速く、遠くへ動かせるか。
2023年研究が測ったのは入力された筋力をどれだけ効率よく歯の力へ変換できるかです。
同じ「顎の性能」に見えますが、実際には別の能力を測っています。
整理すると、ゴブリンシャークは次のようになります。
| 性能 | 研究から見える特徴 |
|---|---|
| 顎の突出速度 | 下顎先端で最大3.14m/s |
| 顎の突出距離 | 静止位置から体長の8.6〜9.4% |
| 突出方向 | 主に前方、やや上方 |
| 顎の力学効率 | 肉食性ネズミザメ目13種で全体として最低 |
| 顎の形 | 横幅に対して前後に長い |
| 顎内転筋 | 比較的後方に位置 |
| 前方の歯 | 細長い穿刺型、相対咬合力が低い |
ここで注目したいのが、「長い顎」です。
長い顎は、てこの観点では咬合効率を下げます。しかしその一方で、顎そのものを大きく前方へ移動できれば、獲物に届く範囲を広げられます。
2023年研究の著者らも、ゴブリンシャーク特有のスリングショット機構が、低い顎効率を部分的に補う方向で進化した可能性を論じています [2]。
2016年研究でも、ゴブリンシャークは典型的なネズミザメ目とは異なり、細長い体、柔らかな体幹筋、小さく柔らかな鰭などを持つことから、高速で持続的に獲物を追いかける能力は高くないと考えられています。そのため、研究者らは高速かつ大きく突出する顎が、そうした遊泳能力を補う可能性を提示しました [1]。
つまり、ゴブリンシャークを「噛む力が弱い代わりに顎が速くなった」と単純化するのは正確ではありません。
しかし少なくとも2つの研究を並べると、
獲物まで高速で泳いで近づき、高効率な顎で噛む
という方向ではなく、
体から離れた獲物へ、長い顎そのものを一瞬で送り込む
方向に極端な特徴を持つ捕食者だと整理できます。
これは「速さ」と「力」のどちらが優れているかという話ではありません。
生物の構造には、それぞれ異なる性能があります。長さを伸ばせば、てこの効率は不利になることがあります。しかし、その長さ自体が別の場面では武器になります。
ゴブリンシャークの顎が異様なのは、単に顔から飛び出すからではありません。
力を効率よく伝えるという尺度では不利な形を持ちながら、その長い顎をサメでも例外的な速度と距離で前方へ送り込む。
一見矛盾して見える2つの性能が、同じ捕食装置の中に共存していることこそ、この顎の最も興味深い点なのです。
なお、この進化的説明には限界があります。2016年研究で映像に記録されたのは2個体・5イベントで、詳細な速度解析は主として2008年の1個体に基づきます。その個体は水深150〜350mで捕獲された後、水深約6mの港で撮影されており、自然の深海で同一の運動が常に行われることを直接示したものではありません [1]。
2023年研究も基本的に各種1標本を使った力学モデルで、実際の筋力や絶対咬合力を測った研究ではありません [2]。
そのため「深海生活が高速突出を生み出した」「咬合効率を犠牲にして速度を得た」と因果関係まで断定することはできません。
現時点で研究から言えるのは、もっと限定的です。
ゴブリンシャークには、サメの中でも極端に高速・大規模な顎突出が確認されている。そして別の比較研究では、その顎は力を伝える効率が低い構造をしている。さらに研究者らは、このスリングショット機構が低い顎効率や遊泳能力を補う可能性を提示している。
この3段階を分けて考えることで、あの奇妙な「飛び出す顎」を、見た目以上に正確に理解できます。
参考文献
[1]Nakaya K, Tomita T, Suda K, Sato K, Ogimoto K, Chappell A, Sato T, Takano K, Yuki Y. Slingshot feeding of the goblin shark Mitsukurina owstoni (Pisces: Lamniformes: Mitsukurinidae). Sci Rep. 2016 Jun 10;6:27786. doi: 10.1038/srep27786. PMID: 27282933; PMCID: PMC4901258.
[2] Tanoue K, Shimada K. Jaw mechanics in macrophagous lamniform sharks and their evolutionary and functional implications. The Anatomical Record. 2023;306:311–325. DOI: 10.1002/ar.25071.
執筆:水野玲
検証・編集:白石慎
