
今からおよそ90万年前、人類の祖先は「約1280個体」しか残っていなかった――。2023年、そんな衝撃的な研究結果が発表されました。
現代人3154人のゲノムを解析した研究では、約93万〜81万3000年前の約11万7000年間にわたり、人類の祖先集団の「有効集団サイズ」が平均約1280まで縮小したと推定されています。研究チームは、この時期に祖先集団が絶滅寸前まで追い込まれた可能性を指摘しました [1]。
しかし、この「1280」という数字は、当時地球上に生きていた人類の総人口を直接数えたものではありません。さらに2025年には、同じようなゲノムデータを別の方法で検証し、「そこまで深刻なボトルネックが存在したとする証拠は不十分」とする論文も発表されています [2]。
約90万年前、人類の祖先は本当に「約1280個体」まで減り、絶滅寸前になっていたのでしょうか。本記事では、この説を提示した2023年の研究と、異なる解析手法から疑問を呈した2025年の研究を比較し、「1280」という数字が何を意味するのか、現時点でどこまで確かな説なのかを検証します。
2023年研究が推定した「平均約1280」の有効集団サイズ
この説が注目を集めるきっかけとなったのは、2023年に科学誌『Science』へ掲載された研究です。
研究チームが問題にしたのは、はるか昔の人類の「人口」をどうやって調べるかという難題でした。
現生人類ホモ・サピエンスが登場するよりもはるかに古い時代、とくにアフリカの古代人類からDNAを直接入手することは非常に難しいとされています。そこで研究チームは、過去の人骨そのものではなく、現代人のゲノムに残された痕跡から過去をさかのぼる方法をとりました [1]。
使用されたのが、研究チームの開発した「FitCoal」という解析手法です。
人口が増減すると、集団内に存在する遺伝的変異の分布にも痕跡が残ります。研究では「SFS(site frequency spectrum:サイト頻度スペクトラム)」と呼ばれる、さまざまな変異が集団内にどの程度の頻度で存在するかを示す情報を利用しました。
解析対象となったのは、現代人3154人分のゲノムです。研究チームはアフリカ10集団と非アフリカ40集団のデータを解析し、過去の有効集団サイズの変化を推定しました [1]。
その結果、アフリカの10集団すべてから、約90万年前に非常に大きな人口減少を示すシグナルが検出されたと報告されました。
推定されたボトルネックの開始は約93万年前、終了は約81万3000年前。つまり、極端に小さな集団が約11万7000年間続いた計算です [1]。
そして最も衝撃的だったのが、その規模でした。
ボトルネック以前の祖先集団の有効集団サイズは平均約9万8130と推定されたのに対し、ボトルネック中は平均1280±131。以前のわずか約1.3%に相当します [1]。
研究者らは論文中で、ボトルネック開始時に祖先集団の約98.7%が失われたと表現し、この急減によって人類の祖先が絶滅の危機にさらされた可能性を指摘しています [1]。
さらに、モデル上ではこのボトルネックによって現在の人類につながる遺伝的多様性の65.85%が失われたとも推定されました [1]。
現在80億人を超える人類の遠い祖先が、一時期はこれほど小さな集団になっていた――。これが「人類は90万年前に絶滅寸前だった」という説の根拠です。
図解1:90万年前の「1280個体説」

「1280個体」は当時の人類の実人口ではない――有効集団サイズとは?
ここで注意しなければならないのが、「1280」という数字の意味です。
この数字だけを見ると、
「地球上の人類が1280人まで減った」
と受け取ってしまいそうですが、論文が推定したのは人口を直接数えた値ではありません。
研究で扱われているのは、effective population size(有効集団サイズ)です。2023年論文では、これを繁殖に関わる個体数として説明しています [1]。
つまり、遺跡や化石を集計して「当時は1280人いた」と確認した研究ではなく、現代人の遺伝的変異から過去の集団動態をモデルによって逆算した結果が「約1280」なのです。
この違いは、記事を理解するうえで非常に重要です。
FitCoalは、現在残っている遺伝的変異がどのような集団サイズの変化を経れば生じるのかを推定する手法です。研究チームはシミュレーションを用い、一定人口、急激な増加、ボトルネック、指数関数的増減など複数の人口史モデルについて性能を検証しました。その結果、FitCoalはシミュレーション上では設定された人口変化を高い精度で復元したと報告しています [1]。
一方で、ここには後に大きな論争の種となる問題もあります。
私たちが見ているのは90万年前の人口そのものではなく、現代人のゲノムという結果から過去を推定したモデルです。
したがって、「1280」という数字の確からしさは、過去を復元する解析手法や、その際に置いた集団モデルがどこまで現実の人類史を表現できているかに左右されます。
2023年論文はFitCoalによって非常に鋭い人口減少を見つけました。しかし後述する2025年の研究では、まさにこの点が問題になります。
同じ遺伝データを見ても、使うモデルによって「巨大なボトルネック」が現れたり、現れなかったりするからです [2]。
「1280人しかいなかった」という数字そのものよりも、なぜ現代人のDNAから1280という数字が推定されたのかを見ることが、この研究を正確に理解する鍵になります。
約11万7000年のボトルネック——2023年研究の推定と背景仮説
では、2023年の研究が示した巨大なボトルネックが本当に起きていたとすると、何が人類の祖先をそこまで追い詰めたのでしょうか。
研究チームが有力な背景として挙げているのが、当時の気候変動です [1]。
約125万〜70万年前は、前期更新世から中期更新世への移行期にあたります。
2023年論文では、この時期に氷期のパターンが変化し、従来より長く、温度変化も激しい氷期が現れるようになったことに注目しています。とくに約90万年前には「0.9 Ma event」と呼ばれる大きな変化があり、海面付近の温度が移行期全体でも非常に低い水準まで下がったとされています [1]。
論文では、アフリカやユーラシアで長期的な乾燥や動物相の大きな変化が起きたという先行研究も踏まえ、こうした環境変化が祖先集団の減少に関係した可能性を提示しています [1]。
ただし、ここは明確に区別する必要があります。
「約90万年前に気候が大きく変化した」ことと、「その気候変動によって人類が1280まで減った」ことは同じではありません。
2023年論文でも、気候変動をボトルネックの原因として確定したわけではなく、人口減少を引き起こした可能性のある要因として論じています [1]。
もう一つ、研究チームが注目したのが化石記録です。
論文によると、約95万〜65万年前には、アフリカとユーラシアで利用できる人類化石が極端に少ない時期があります。研究チームは、推定された人口減少の時期と、この化石記録の空白が時間的に重なることを指摘しました [1]。
さらに研究では、約81万3000年前にボトルネックが終わった後、アフリカ10集団の推定人口サイズが約20倍に急増したとしています [1]。
その回復については、気候条件の変化に加え、約79万年前のイスラエルで確認されている初期の火の利用が何らかの役割を果たした可能性も論文中で提示されています。ただし、これも人口回復の原因として立証されたものではありません [1]。
このように2023年論文が描いたストーリーは非常に印象的です。
激しい気候変動が起きる。
人類の祖先集団が急減する。
約11万7000年間、小さな集団で耐え続ける。
その時期には化石記録も乏しくなる。
そして約81万年前から急速に回復する――。
しかし、時間的に一致する現象を一本の因果関係として結びつけるには、より多くの証拠が必要です。
そして、さらに根本的な問題として、そもそも「約1280まで減った」という最初の推定自体が正しいのかという疑問が、その後に突きつけられました。
「約1280個体まで減った証拠は不十分」2025年の研究が突きつけた疑問
2025年、『Molecular Biology and Evolution』に2023年の結果を再検討する論文が掲載されました [2]。
タイトルからして明確です。
研究者らの結論は、「前期更新世から中期更新世への移行期に人類が深刻なボトルネックを経験したとする証拠は不十分」というものでした [2]。
ポイントは、「2023年のFitCoalを動かすとボトルネックが出ない」と単純に否定したわけではないことです。
2025年の研究でも、現代のヨルバ人集団(YRI)のデータにFitCoalを適用すると、約100万年前に強いボトルネックが再び推定されました [2]。
ところが、同じSFSに「mushi」という別の人口史推定手法を適用すると、FitCoalが示したほど深刻なボトルネックは現れませんでした [2]。
では、どちらのモデルを採用すべきなのでしょうか。
2025年の研究者らが重視したのが、実際に観測されたデータをどちらのモデルがよりよく説明できるかです。
モデルの適合度を対数尤度で比較すると、mushiによるモデルはFitCoalモデルより高い適合度を示しました。論文では両者の対数尤度の差を1084と報告し、約100万年前に深刻なボトルネックを置くFitCoalモデルを積極的に選ぶ理由はないと論じています [2]。
つまり、
FitCoalでは「巨大な谷」が見える。
しかし別のモデルでは、その谷を置かなくてもデータをよりよく説明できる。
という状況です。
図解2:同じゲノムから違う人類史が見える

2025年論文は、さらにもう一つ重要な問題を指摘しました。
2023年のFitCoal解析では、古代の深刻なボトルネックはアフリカ10集団では直接検出された一方、非アフリカ40集団からは直接検出されませんでした [1]。
2023年の研究者らは、後の「出アフリカ」に伴う人口減少によって、さらに古いボトルネックのシグナルが見えにくくなった可能性をシミュレーションから示しています。その後、解析を拡張すると非アフリカ集団からも約1450というボトルネックを推定できたと報告しました [1]。
これに対し2025年論文は、もし2023年論文が想定するほど巨大な古代ボトルネックがあったなら、その影響を加えた場合と加えない場合で、非アフリカ集団のSFSには識別可能な差が残るはずだと計算しました [2]。
そのため、非アフリカ集団からFitCoalが古代ボトルネックを直接検出しなかったことは、推定の頑健性に疑問を生じさせると論じています [2]。
さらに問題を複雑にするのが、「祖先集団をどう考えるか」です。
2025年論文は、人類が長期間にわたって単一の均質な集団として存在していたとは限らず、複数に分かれた祖先集団が後に混合したという「集団構造」を支持する研究が増えていると指摘しています [2]。
FitCoalを含む人口史推定では、遺伝的系統が過去に合流していく割合から集団サイズを推定します。しかし2025年論文は、集団が均質に混ざっている場合にはその解釈が成立しても、複雑な集団構造が存在する場合には単純に人口サイズへ置き換えられない可能性を問題視しています [2]。
これは、「1280」という数字の意味を考えるうえで非常に重要な論点です。
表1:2本の論文は何を主張している?
| 2023年研究 [1] | 2025年研究 [2] | |
|---|---|---|
| 主な解析 | FitCoal | FitCoalとmushiなどを比較 |
| 約100万年前の深刻なボトルネック | 推定された | 証拠は不十分と評価 |
| 推定規模 | 平均約1280 | 同規模の急減を必要としないモデルを支持 |
| 非アフリカ集団 | 当初は直接検出されず、拡張解析で推定 | この不一致を問題視 |
| 結論 | 人類祖先が絶滅に近づいた可能性 | 深刻なボトルネックモデルを支持する根拠は不十分 |
結局、人類は本当に絶滅寸前だったのか?
では結局、約90万年前に人類の祖先は「約1280個体」まで減ったのでしょうか。
今回の2本の論文だけから判断するなら、現時点で確定した事実として扱うことはできません。
2023年の研究は、3154人分の現代人ゲノムをFitCoalで解析し、約93万〜81万3000年前に平均約1280という極端に小さな有効集団サイズが約11万7000年間続いたという具体的なモデルを示しました [1]。
シミュレーションによる検証も行われており、単に根拠なく「人類は絶滅寸前だった」と主張した研究ではありません。
一方、2025年の再検証では、同じタイプの遺伝データに別の解析手法を適用すると同規模の急減は推定されず、むしろ深刻なボトルネックを置かないモデルの方がデータへの適合度が高いという結果が得られました [2]。
さらに、非アフリカ集団での再現性や、祖先人類が単一の均質な集団だったとみなしてよいのかという問題も残っています [2]。
したがって、
「90万年前、人類は1280人まで減って絶滅寸前だった」
と断定してしまうのは、現在の証拠を超えています。
より正確には、
「現代人のゲノムをFitCoalで解析すると、約90万年前に有効集団サイズが約1280まで低下したという人口史が推定された。しかし、その極端なボトルネックを必要としない別のモデルも存在し、2025年には証拠が不十分だという再検証結果が示された」
というのが、今回の2本の論文から読み取れる状況です。
ロザニカ編集部として注目したいのは、「1280」という数字以上に、その数字が見えたり、消えたりする点です。
私たちは90万年前の人口を直接観察できません。手元にあるのは、何十万世代もの歴史を経て現代人に残された遺伝情報です。そこから過去を復元するとき、どのような集団を仮定し、どの統計モデルで読み解くかによって、描かれる人類史が変わる可能性があります。
2023年の研究が描いたのは、一度は絶滅寸前まで追い込まれながら生き延びた人類の祖先という壮大な物語でした。
しかし2025年の研究が示したのは、その物語を魅力的だからという理由だけで「歴史的事実」にしてはいけないという、別の意味で興味深い現実です。
約90万年前に人類の祖先に何が起きていたのか。
「1280個体」という数字は、その答えではなく、むしろ人類史をめぐる新しい論争の出発点なのかもしれません。
参考文献
[1] Hu W, Hao Z, Du P, Di Vincenzo F, Manzi G, Cui J, et al. Genomic inference of a severe human bottleneck during the Early to Middle Pleistocene transition. Science. 2023;381(6661):979–984. doi:10.1126/science.abq7487.
[2] Cousins T, Durvasula A. Insufficient Evidence for a Severe Bottleneck in Humans During the Early to Middle Pleistocene Transition. Molecular Biology and Evolution. 2025;42:msaf041. doi:10.1093/molbev/msaf041.
執筆:水野玲
検証・編集:白石慎
