
万里の長城というと、レンガや石を積み上げた巨大な城壁を思い浮かべますが、乾燥・半乾燥地域には土を何層にも突き固める「版築」で造られた区間が広く残っています。こうした土の壁にとって、雨や風による侵食は大きな脅威です。ところが一部の壁面には、灰緑色をした厚さわずか1〜2.5mmほどの層が広がり、その場所だけ周囲より崩れにくいことが確認されています。一見すると苔や汚れのようですが、その正体はシアノバクテリア、藻類、コケ、菌類などと土粒子が一体化した「バイオクラスト」です。では、数mmしかない生物由来の層が、なぜ巨大な土壁の侵食を抑えられるのでしょうか。
万里の長城の版築壁を覆う、厚さわずか1〜2.5mmほどの灰緑色の層。これが本当に侵食を抑えているのかを確かめるために使われたのは、一つの測定法ではありませんでした。実際の壁に水を当てる方法、土の強度や水分特性を測る方法、そして粒子同士の結びつきを顕微鏡で見る方法。見ているものも尺度も異なりますが、それぞれがバイオクラストと呼ばれる生物由来の表層に、別の角度から迫っています。
別々の方法で見えたもの
- 現地・室内の散水試験:クラストに覆われた試料ほど、5分間の散水で土が流出しにくかった [2]
- 約600km規模の調査と力学試験:バイオクラスト部分では、裸の版築土より圧縮強度・貫入抵抗・せん断強度が高かった [1]
- 電子顕微鏡観察:クラスト内部では、糸状構造や多糖類状の物質が土粒子をつなぐように広がっていた [2]
この3つは、同じ場所を同じ条件で測った反復実験ではありません。2024年の山海関での散水試験では、クラストのない地点から流出した土は2926.11g、全面を覆われた地点では32.77gでしたが、両者は「同じ壁からクラストだけを除去した比較」ではないため、侵食量の差をそのままクラストだけの効果とみなすことはできません。一方、2023年の広域研究では、調査した長城区間の67.1%がバイオクラストに覆われ、圧縮強度は平均75.07kPaから168.59kPaへ高まるなど、別の地域・別の測定から機械的な安定性の違いが示されました [1][2]。
重要なのは、これらの結果を単純に「全部一致した」とまとめることではありません。散水試験が示すのは実際に水を受けたときにどれだけ崩れにくいか、力学試験が示すのは土そのものがどれだけ壊れにくい状態になっているか、顕微鏡観察が示すのはその違いを生みうる微細構造です。証拠の役割が違うからこそ、重ねることで「薄い膜が雨を遮るだけ」という説明では足りないことが見えてきます。
雨滴を受ける表面、水が入り込む孔隙構造、そして粒子を結びつける微細なネットワーク。数mmのバイオクラストは、侵食の一か所だけではなく、複数の段階に作用している可能性があります。ここから先では、5分間の散水で現れた差、600km規模で測られた強度と水分特性、顕微鏡で見えた粒子間構造をつなぎ、どこまでが各研究で直接確認され、どこからが複数の結果を重ねた解釈なのかを切り分けて見ていきます。
わずか5分で差が出た――バイオクラストのない長城は雨で崩れ始めた
万里の長城というと、レンガや石で造られた巨大建造物を思い浮かべるかもしれません。しかし、長城には土を層状に突き固める「版築」で造られた部分も数多く存在します。
2024年の研究が対象とした山海関長城でも、外側のレンガが失われ、内部の版築土がむき出しになった場所があります。雨にさらされた土壁では、侵食や亀裂、表面の剥離、崩落などが生じていました [2]。
ところが研究者が小湾口と南土庄口を調査すると、同じような版築壁でも、不思議なほど雨に削られていない場所が見つかりました。
違いは表面です。
侵食されにくい部分には、灰緑色をした薄い層が形成されていました。ノギスで測定すると厚さは約1〜2.5mm。一部はナイフで剥がせるほど薄い層でした [2]。
本当にこの薄皮が壁を守っているのでしょうか。
研究チームは実際の長城で3種類の地点を選び、ポンプを使って5分間の散水試験を行いました。
E1は灰緑色のクラストが全面を覆った場所、E2は一部だけを覆った場所、E3はクラストが形成されていない場所です。水の噴出口は壁面から30cm離され、同じ設定で散水されました [2]。
結果は短時間で分かれました。
全面がクラストで覆われたE1では、水滴が表面に当たると水がその上を流れ、5分間でクラスト表面に目立った変化は確認されませんでした。
一方、部分的にしかクラストがないE2では、クラストのない部分から水が浸透し、約2分後には泥が流れ始めました。約4分後には土塊の崩落も起きています。
クラストのないE3ではさらに早く、約1分で泥流と崩れが発生。2分後には土が崩壊し、3分後には土塊が水とともに流れました [2]。
5分後に流れ落ちた土を乾燥させて量ると、
| 地点 | 表面状態 | 流出した土 |
|---|---|---|
| E1 | クラストで全面被覆 | 32.77g |
| E2 | 一部をクラストが被覆 | 895.10g |
| E3 | クラストなし | 2926.11g |
という結果でした [2]。
単純計算するとE3の流出量はE1の約89倍です。
ただし、ここには重要な注意点があります。E1とE3は「同じ場所からクラストだけを取り除いた比較実験」ではなく、それぞれ異なる現地点です。そのため、バイオクラストによって侵食量が89分の1になった、と因果関係をそのまま数値化することはできません。
それでも、クラストの被覆状態と侵食の程度に非常に大きな差が観察されたことは確かです。
さらに研究者は、切り出した試料を使って室内でも5分間の散水試験を行いました。
試験後に残っていた重量の割合は、灰緑色クラスト試料D1が95.27%、元の版築土D2が72.66%、母材から再成形した版築土D3が68.62%でした [2]。
現地観察だけでなく、切り出した試料でもクラストがあるものほど崩れにくかったわけです。
では、この灰緑色の薄皮は何なのでしょうか。
灰緑色の膜の正体は「土」だけではなかった
土の表面には、雨などによって細粒物質が固まってできる物理的なクラストもあります。
そのため「表面だけ土が硬く固まったのではないか」と考えることもできます。
しかし、研究チームが山海関の灰緑色層を調べると、単なる土の固結層では説明できない特徴が現れました。
研究では粒径、鉱物組成、塩類などを調べるだけでなく、灰緑色の試料を蒸留水や培養液に入れて7日間観察しています。
水に入れても試料は簡単には崩壊しませんでした。そして培養すると、表面では生物の成長が観察され、藻類やコケも確認されました [2]。
さらに表面0〜3mmから採取した試料の遺伝子解析では、28門、65綱、140目にわたる生物群が検出されました。論文では、シアノバクテリアとAlphaproteobacteriaが主要な構成要素で、合わせて約60%を占めたと報告されています [2]。
つまり、目に見える「灰緑色の皮」は、単一の苔でも藻でもありません。
こうしたシアノバクテリア、藻類、コケ、菌類などの生物と、そこに取り込まれた土粒子が一体となってできる層がバイオクラスト(biological soil crust、生物土壌クラスト)です。
2023年に別の地域の万里の長城を調べた研究でも、シアノバクテリア優占型とコケ優占型のバイオクラストが確認されています。シアノバクテリアではTychonema属を中心に複数の属が、コケでは主にPottiaceae科の仲間が確認されました [1]。
「長城に苔が生えている」というよりも、微生物と植物と土が一緒になって、一枚の生きた表層を作っていると考えた方が実態に近いのです。
しかも研究者は、山海関の耐侵食性が別の材料によって生じた可能性についても検討しています。
この地域の版築土では、建設時に石灰やもち米由来の材料が使われたという記録があります。しかし調査したクラスト層、粉化層、母材の炭酸カルシウム含有量はいずれも低く、研究者らは局所的な耐侵食性を説明する主要因として、炭酸カルシウムの沈着よりバイオクラストを重視しています [2]。
では、生き物が存在するだけで、なぜ土が雨に流されなくなるのでしょうか。
なぜ数mmの「生きた皮膚」で土壁が崩れにくくなるのか
その答えは、表面を電子顕微鏡で拡大すると分かりやすくなります。
2024年の研究では、灰緑色クラストと、その下にある元の版築土を走査電子顕微鏡(SEM)で観察しました。
クラストでは、糸のような構造が土粒子の間を伸び、互いに重なりながら粒子表面を覆っていました。さらに藻類が分泌したとされる多糖類状の粘質物が、土粒子を覆うように存在していました [2]。
対して母材の版築土では、同じような糸状構造や粒子を結び付けるネットワークは確認されませんでした。
研究者らは、藻類のフィラメントや菌糸が土粒子の間に絡みつき、さらに多糖類などの分泌物が接着剤のように働くことで、多層的なネットワークを形成すると説明しています [2]。
これは2023年の広域研究とも整合します。
同研究では、バイオクラストに覆われた版築土と裸の版築土について、さまざまな物理特性を比較しました。
平均値では、バイオクラスト部分の圧縮強度は168.59kPaで、裸の版築土の75.07kPaに対して124%高くなっていました。
物体を表面に押し込んだときの抵抗を示す貫入抵抗は0.97MPa対0.71MPaで37%高く、横方向にずらそうとする力への抵抗であるせん断強度も5.61kg/cm²対3.66kg/cm²で53%高い値でした [1]。
つまりバイオクラストは、単に壁の表面を覆って雨粒を遮っているだけではありません。生物が作る構造そのものが、土の粒子をばらばらになりにくい状態へ変えていると考えられます。
同じ研究では、0.25mmを超える土壌団粒などから評価した「団粒安定性」も高まり、研究者らはバイオクラストによって団粒安定性が178%増加したと報告しています。また可溶性塩類は40%、電気伝導度は48%低下していました [1]。
水に対する性質にも違いがありました。
バイオクラストで覆われた版築土では毛管孔隙率と全孔隙率が低く、圃場容水量も平均5.2%低下していました。研究者らは、この変化が壁の内部へ水が浸透しにくくする方向に働く可能性を指摘しています [1]。
ここからは、2つの研究をもとにしたロザニカ編集部の整理・考察です。
バイオクラストの防御を一つの機能だけで説明すると、本質を見落とします。
今回の結果をつなげると、その役割は大きく3段階に整理できます。
まず、表面にあるクラストが「傘」のように雨滴の直撃を受けます。裸の版築土なら雨滴が直接土粒子をたたきますが、クラストがあればその衝撃の一部を表面層が引き受けます。
次に、孔隙構造などを変えることで、内部へ水が入り込む経路を変える「防水層」のような役割があります。
そして内部では、フィラメントと粘質物が土粒子をつなぐ「補強ネット」として働きます。
つまり、
雨滴が当たる
→ 水が浸透する
→ 土粒子がほぐれる
→ 粒子が水とともに流れる
→ 壁面が削られる
という侵食の連鎖を、バイオクラストは複数の地点で妨げている可能性があります。
もちろん「傘・防水層・補強ネット」という分類自体は論文の用語ではありません。2研究の結果を一般読者向けに統合した整理です。
図解1:厚さ1〜2.5mmの「生きた皮膚」はどう雨から長城を守る?

山海関だけの偶然ではない――約600kmを調べると67%がバイオクラストに覆われていた
ここまでの山海関の実験だけを見ると、「たまたま特殊な場所に強いクラストが生えていたのではないか」という疑問が残ります。
そこで重要になるのが、2023年に発表された別の研究です。
こちらの研究チームは、乾燥・半乾燥地域にある万里の長城について、600km以上にわたる範囲から8つの調査地点を選びました。対象には「壁」だけでなく「堡塁」も含まれ、乾燥地域と半乾燥地域、シアノバクテリア系クラスト、コケ系クラスト、裸の版築土を比較しています [1]。
各条件を組み合わせた12処理について10反復を設定し、各指標では計120サンプルを扱う設計でした [1]。
その結果、調査した長城区間の67.1%がシアノバクテリアまたはコケのバイオクラストに覆われていました [1]。
ここが重要です。
2024年研究は「実際に雨を当てる」という直接的な実験によって、山海関の薄いクラストに高い耐侵食性があることを示しました。
一方、2023年研究は広い地域を調べ、バイオクラストが珍しい局所現象ではなく、調査した版築長城のかなり広い範囲に存在し、裸の版築土より高い機械的安定性を持つことを示しています。
2つの研究は実験条件も地域も違うため、数値をそのまま横並びにはできません。しかし、証拠の役割を整理すると相互に補完しています。
表1:バイオクラストの「防御力」はどこまで確認されている?
| 証拠 | 調査・実験 | 主な結果 | 分かること |
|---|---|---|---|
| 現地散水試験 | 山海関、5分間 | 流出土32.77g/895.10g/2926.11g | 実壁面でクラスト被覆状態と侵食に大きな差 |
| 室内散水試験 | 切り出した試料、5分間 | 残存率95.27%/72.66%/68.62% | クラスト試料自体が高い耐侵食性を示す |
| SEM観察 | クラストと母材を比較 | フィラメントと多糖類状物質によるネットワーク | なぜ粒子が結び付くのかをミクロに説明 |
| 広域調査 | 約600km、8地点 | 調査区間の67.1%を被覆 | 山海関だけの局所現象ではない |
| 力学試験 | バイオクラストと裸地を比較 | 圧縮・貫入・せん断強度が上昇 | 表面だけでなく機械的安定性にも差 |
一方で、「バイオクラストがあれば長城は安全」と単純化するのも間違いです。
2023年研究では、クラストの種類や気候、構造物の種類によって防御特性が変化していました。
乾燥地域ではシアノバクテリア系クラストの被覆が多く、より湿潤な半乾燥地域ではコケ系が多くなりました。また同じ条件では、発達したコケ系クラストの方がシアノバクテリア系より高い機械的安定性を示す傾向もありました [1]。
つまりバイオクラストは、人工的に塗る均一な保護剤ではありません。
気候、土の性質、構造、そこに生息する生物によって変化する「生きた材料」です。
研究者らは、バイオクラストが長城の保存に役立つ自然由来の手段になり得ると考えていますが、同時に未解決の問題も残しています。
微生物や地衣類が文化財を傷める「生物劣化」は、特に石造文化財では知られています。2023年研究では、土で造られた文化財では強い風雨による侵食が主要な脅威であるため、今回の条件ではバイオクラストの保護効果が潜在的な生物劣化を上回ると研究者らは解釈しています [1]。
しかし、景観への影響については別問題です。長城を生物が厚く覆えば、歴史的な外観が変わる可能性があります。どの程度の被覆まで許容できるのかについて、研究者らも統一基準はないとしています [1]。
さらに重要なのが、自然に生えたバイオクラストを残すことと、人工的に増やすことは同じではないという点です。
2024年研究では、今後の課題として有力な藻類の特定や、生物同士がどのように共同して保護効果を生むのかを調べ、将来的には現地での接種実験を行う計画が示されています [2]。
したがって、今回の研究から「万里の長城に苔を植えればよい」「文化財の苔は絶対に剥がしてはいけない」とまでは言えません。
今回の2研究から確認できるのは、もっと限定的で、それでも十分に興味深い事実です。
調査された版築造りの万里の長城では、これまで文化財の表面を覆う邪魔な存在と見なされかねなかった生物が、実際には雨を受け止め、土粒子を結び、壁を侵食から守る層として機能している可能性が高い。
高さ何mもの巨大な城壁を支えているのは、目に見えるレンガや土だけではありません。
少なくとも一部の長城では、その最前線で雨を受け続けているのは、厚さわずか数mmの「生きた皮膚」なのです。
参考文献
[1] Cao Y, Bowker MA, Delgado-Baquerizo M, Xiao B. Biocrusts protect the Great Wall of China from erosion. Sci Adv. 2023 Dec 8;9(49):eadk5892. doi: 10.1126/sciadv.adk5892. Epub 2023 Dec 8. PMID: 38064559; PMCID: PMC10708191.
[2] Liu L, Zhang Y, Guo L, Cao H, Dai Z, Zhao Z, et al. Experimental test and mechanism analysis of soil crust erosion resistance of rammed earth Great Wall in rainy season. Scientific Reports. 2024;14:9069. DOI: 10.1038/s41598-024-59706-z.
執筆:高瀬りょう・水野玲
検証・編集:白石慎
